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私的な、あまりに私的な・・・



こんなのをいただきました。すべて宇和島名産のよく知られたもので、何であるかは説明するまでも無いのだが、下左は説明しなければならないでしょうね。という割りには、「ジャコ天」ですとしか言い様もありません。幕末の宇和島藩主は中央政界で大活躍でした。しっかりした藩主の下では、しっかりした特産品が育つのでしょう。

昼間は妻娘がいなかったので、僕一人でごはんを盛り、ジャコ天に醤油をかけて二枚を食べてしまった。夜にはこれを使って、酢飯の混ぜご飯にした。チラシ寿司という人もいるが、それとは違うような気がする。地元のうどん蕎麦の大型レストランチエーン店のメニューには、「おばあちゃんのまぜごはん」、そして他店では「おばあちゃんのチラシ寿司」とある。やっぱりチラシ寿司なのだろうか、いずれにせよおばあちゃんが出てくるところを見れば、懐かしいお味ということになろう。



めざしは焼きたてのアツアツを食べるに限る。油でサッと揚げて、大根おろしで食しても美味であった。頭と尻尾を取り除いて、昆布巻きにしたらどうであろうか。僕は食い物に結構拘るほうですね。歳とともにこんなになってしまいました。

30年以上前のことだが、今の僕と同じくらいの歳の女流画家が仰ったことを思い出します。この女性はフランス滞在歴が長く、偶々帰ってきていました。ご主人は何人目かでしたが、年下の方だそうです。勿論、冗談半分におっしゃったことですよ。

「私の年齢では、男性を惹きつけるのは料理です、男性の舌を狙うしかありません。味で男性を虜にします。」

これ、今の僕はよくわかります。美味しい食べ物にうたってしまいそうです。あえて言うならば、僕が料理を作って、僕を喜ばすために、だろうか。



遅くなりましたが、お心遣いくださった、我が友よ、サンキューベロベロマッチー!

















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[ 2010/12/30 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

年年歳歳

前回は高校日本史であったが、今日はなぜか高校の「漢文」の授業を思い出しました。

気楽というか、楽しい授業であった。というのも同じ国語の先生でも、漢文の先生はおじいちゃん先生で、ほとんど恐怖感がなかった。「古文」は最悪でした。古文の先生は僕らを「貴様」と呼んでました。陸士を出た人であったが、僕らを本気で殴っていたとしか思えない。「足を半歩開け、歯を食いしばれ、キサマーッ!」と言って、勢いをつけて殴ってました。殴られた方は、たいてい転がってましたね。

おじいちゃん先生は姓は○○名はキョーシンであった。僕は「鏡心」だと思っているが、未だにはっきりとは分らない。かなり長い間同じ高校におられたらしく、僕の先輩あたりと話していても、漢文はキョーシンだったという話で盛り上がる。僕の同級生は予備校でもお世話になったらしいから、僕らの頃には先生は丁度定年間際であったのでしょう。

老眼鏡の上からギョロリとした目で見ていた。この先生が「ああ、コーガンの美少年」だの「白髪三千丈」だのと読めば、僕らは顔を見合わせて笑ったものだ。老人らしい仕種を笑ったのであるが、よく考えてみれば、今の僕らの年齢でいらっしたわけだ。それで、こういう漢詩を思い出しましたよ。



代悲白糖翁(白頭を悲しむ翁に代わりて)

洛陽城東 桃李の花、飛び来たり飛び去りて誰が家にか落ちる。洛陽の女児は 顔色を惜しみ、行く落花に逢いて長嘆息す。今年花落ちて顔色改まり、明年花開いてまた誰か在る。すでに見る松柏の砕かれて薪となるを、更に聞く桑田の変じて海となるを。古人また洛城の東に無く、今人なほも対す 落下の風。年年歳歳 花相似たり、歳歳年年 人同じからず。言を寄す 全盛の紅顔子、まさに憐れむべし 半死の白頭翁。この翁白頭 真に憐れむべし、これ昔 紅顔の美少年。公子王孫 芳樹の下、清歌妙舞す 落花の前。光禄の池台に 錦繍を開き、将軍の楼閣に 神仙を画(えが)く。一朝 病に臥して相識るなし、三春の行楽 誰が辺(ほとり)にか在る。宛転たる蛾眉 能く幾時ぞ、須臾にして鶴髪乱れて糸の如し。但看る 古来歌舞の地、惟黄昏鳥雀の悲しむ有るを。



この漢詩を読んで、夢や希望があるだろうか。憐れ翁白頭、黄昏雀のわが身を嘆くばかりで、私はどうも元気が出て来そうに無い。紅顔の美少年、女児とあるので、この詩は女性の一生なんですね。道理で。



男子(公子)には同じ作者で「公子行」というのがある。

天津橋下 陽春の水、天津橋上 繁華の子。・・・・此の時歌舞して 娼家に入る。娼家の美女欝金香、飛び去り飛び来たる公子の傍。・・・君と相向かいてうたた相親しみ、君とならび棲みて 一身を共にせん。願はくば貞松となりて 千歳に古(ふ)りなん、誰か論ぜん 芳槿一朝に新たなるを。・・・・



娼家の美女は欝金香(ハーブの一種?)の香りがして、公子の傍らをあちらこちら漂った。・・・あなたと向かい合っているとますます親しくなって、あなたと一緒に住んで、節操を守って、いつも葉の色を変えない松のようになって千年を経たい。槿(むくげ)のように毎朝新しく咲き、夕方には萎んでしまうような儚い愛など、誰が考えましょうか。

おそらく、このような意味ざんしょ。このようなことって、千年数百年以上も前からあったんですね。エロい話に発展しそうですので、ここいらで止めますが、僕は来年に向けて大いに元気が湧いてきましたよ。勿論、夢と希望、なんちゃって。

あっ、久しぶりでした、なんちゃって、だなんて。(笑)
[ 2010/12/27 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

馬上豊かな美少年

むしろ(646年)を敷いて大化の改新、いい国(1192年)作ろう鎌倉幕府。僕らは日本史の勉強といえば、このようにして年号を覚えた。試験に年号を問う問題が必ず出題された。年号そのものは出なくても、時代順に並べたもののうち正誤を択一するものもあったので、年号の暗記は必須であった。

その鎌倉幕府であるが、最近では「いい国」ではなくて、それ以前だという諸説があるようだが、名実ともに成立したのは1192年で間違いのないところのようだ。確か、NHK教育TV「高校講座日本史」でやってたような・・・。

明治維新はどうかと言えば、大政奉還、王政復古の号令、廃刀令、壬申戸籍、徴兵令、廃藩置県をなし、明治10年に西南戦争で不平士族の反乱を鎮圧し、以後、内戦はないのだから、この年をもって、新体制が名実ともに完成した。そのように言う人がいて、維新とは幕末の15年、明治の10年、この25年間のことであるという。これは小説だか何かの中で、誰かが語っていたような・・・。

僕は歴史の生き証人でも研究者でもないので、「・・・のような」話になってしまう。



西南戦争は薩軍は賊軍とされた。戦線は鹿児島、熊本、大分、宮崎とかなり広い。そして薩軍にはその地の多くの士族も加わった。大量の砲弾・銃弾が飛び交い、薩軍は白兵戦つまり斬り合いでは善戦したが、兵力、軍資金、装備等のすべてにおいて負けていた。また政府軍にも薩摩の人間が多くいて、同国人同士が戦わなければならない皮肉な運命でもあった。

警察隊を率いた川路大警視は薩摩の人。薩軍の斬り込みに対して警察抜刀隊が対抗する。抜刀隊は戊辰戦争で賊軍とされた旧会津藩藩士で編成され、小隊長佐川官兵衛は会津藩の家老職であった。新撰組の斉藤一も隊員であった。彼は沖田、永倉と並び称される剣客であるが、会津鶴ヶ城落城の後、斗南藩藩士となったのだった。ええ、会津は下北半島に斗南藩3万石として追いやられたのでした。かつての官軍と賊軍の立場が逆転した戦でもありました。



記録によると、19歳以下の今で言う未成年者は、鹿児島出身の37人が激戦の地を踏み、うち13人が戦病死したという。多くの若者が犠牲になったのだが、これらを元に「右手に血刀、左手に手綱、馬上豊かな美少年」と熊本民謡に歌われ、田原坂を題材にした歌謡曲にも挿入された。

薩軍のなかには山形出身の二人の少年がいた。伴兼之(16歳)と榊原政治(17歳)、いずれも庄内藩士の子弟であった。

庄内と薩摩は縁が深い。京都の警備・治安は会津公が守護職として守り、江戸の警備は庄内藩が担当していた。薩摩藩邸焼き討ちも庄内藩が関与していた。会津公の弟の桑名藩主が京都所司代であったので、討幕派は会桑憎しで戊辰戦争を戦った。当然、庄内憎しもあったであろう。

戊辰戦争では薩摩は庄内を攻める。戦後、敵ながら良く戦ったということで、西郷は庄内藩主の蟄居という温情ある軽い処分ですます。これに感謝した庄内の菅臥牛翁というご家老は、藩士を西郷の下に学ばせたのである。この時も2名の英才が鹿児島の私学校で学んでいた。二人とも優秀であったので、私学校からフランスへの留学が決まっていたのだそうだ。

薩軍が編成された時にも、周囲からは「故郷へ帰れ」と諭されたが、「西郷先生の一大事だから帰る事はできない」と言って参加したのだった。



田原坂の近くの植木、伴は敵兵の中にひとり残って奮闘していたが、被弾して戦死。倒れた伴に気付いた榊原は、敵中に斬りこんでいった。この時は無事であったが、後に被弾して重傷を負い、ついに亡くなった。悲報を聞いた庄内の人々は「西郷先生に殉じ、よくぞ郷土の面目を守った」と冥福を祈ったという。

昭和の時代に、鶴岡市と鹿児島市は兄弟都市の盟約を結んだ。



平成の御世、つい最近のことであるが、僕の友人の経営する喫茶店で、山形出身の学生と会った。大学の近くにあるお店であるので、学生が多い。僕は山形出身の有名人、特に芸能人などの話をした後で、「ほんで、君は山形から東京、大阪を通り越して、なんで鹿児島にやってきたの?」と訊いた。「僕は子供の頃から鹿児島に行きたかったんです」という。俺の目を見ろ何も言うな♪僕はサブちゃんの心境になりましたよ。古い奴だとお思いでしょうが、こいつも庄内藩士の末裔なんだなあ、と僕は思ったのだった。鶴田浩二の台詞のようでもあるが。





[ 2010/12/26 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

鞭声粛粛夜過河

どうもヤプログの使い方が良くわからない。同じ記事がfreemlの方に何度もアップされる。今度は削除しないで放置しておこう。或いは、次の記事を書けば解決するのだろうか。



いつ頃からでしょうか、子供たちは学習塾のほかにいろんな習い事をやっています。僕らの子供時代は、小学生の間は熟もなかった。全体的に貧しかったのでしょう。ごく一部の子供たちが、ピアノ、バイオリン、バレエなどのお稽古に通っていただろうか、それも数えるほどの人数であって、極端に少なかった。柔道・剣道をやってる小学生も、僕の周りにはいなかった。

僕は新聞や雑誌の広告で見た「宮田東峰先生監修・宮田ハーモニカ」というのが欲しくて、寝言で「ハーモリカ・ハーモリカ」と言ったらしく、それを見かねた親が楽器店から買ってきてくれたのだった。それも教本を見ながらの独習であったので、習い事には入らない。

近所のおぼっちゃま君は剣舞というのをやってました。キンキラキン(僕にはそう見えた)の着物を着て刀を差し、詩吟や「会津白虎隊」というような歌にあわせて舞うのである。「べンセイシュクシュクウーーー夜、河を渡るウーーー」なんて詩吟があって、それを僕は弁慶が河を渡る話だとばっかり思い込んでいた。子供の耳学問もアテにはならないですね。だけど、子供の頃の関心のおかげで、今でもこの漢詩を印象深く覚えている。

江戸時代後記の頼山陽の「川中島、不識庵機山を撃つに題す」という漢詩である。



鞭声粛粛夜過河  鞭声(べんせい)粛粛夜河を過(わた)る

暁見千兵擁大牙  暁に見る千兵の大牙を擁するを      

遺恨十年磨一剣  遺恨十年一剣を磨き

流星光底逸長蛇  流星光底長蛇を逸す



不識庵とは上杉謙信、機山とは武田信玄の法号です。音もたてずに馬に鞭を当てて、上杉軍は千曲川を渡っていった。武田軍は、明け方に大将旗を立てた大軍を見て驚いた。無念、十年来信玄を倒すべく磨いてきた剣は、刃一閃のうちに信玄を切りつけたが、長蛇つまり信玄を撃ち漏らしてしまった。このような意味でしょう。



以下、僕の”思うこと”であるので、眉に唾をつけながらお読みください。

詩吟は江戸後期くらいから流行したと言われるが、平安期には和歌を朗詠したり、また琵琶を奏でながら語られたものも独特の節がついていたのだから、吟詠の歴史は長いのだろうと思う。

吟詠は母音を伸ばすのだそうだ。母音といえば、日本人はなぜか母音が連音になるのを嫌ったというんです。本来は「はるあめ」であったのが、「るうあめ」といった風に「う」と「あ」の連音を避けて「はるさめ」(春雨)になったというんです。間に「さ」を入れたんですね。なぜそうしたか、まあ、長い年月の間に自然に変化したものであるので、明確な理由など誰も解からない。だから、僕のような者の想像力の入り込む余地がいっぱいあるんです。

結局、音に拘ったのではあるまいか。言葉だとしても、耳障りのいいというか、気分の落ち着くような綺麗な音を、我らの先祖は意識せずとも、感覚的に追求してきたのではなかったか、長い年月をかけて。



日曜日の静かな朝、「さおだけー」とか「豆腐」などと売り声が聞こえてくる。焼き芋屋にいたっては、「ほっかほかーのー、おいしーいおイモーだよ、おイモー、おイモ」と、しっかり言文一致体の体言止である。このスタイルも100年くらいかけて出来上がったものと思われる。

昔の人はこのような物売りの声は聞くことはあったかもしれないが、今と比較にならないくらい音は少なかったでしょう。夜ともなれば、鳥や虫の音、川のせせらぎ、松風、その程度のものであり、無韻の時間が長かったのだろう。だからこそ、小さな音にも神経を研ぎ澄ませて敏感であった。音に対する拘りは、無韻の世界の大きさに比例したであろうと思う。白砂青松の風景の中には、波と松声しかありえない。考えてみれば、「七五調」なんてのも音ですね。



僕は前にも書いたかもしれませんが、絶えず耳鳴りがしています。耳鳴りは音ではない、と言えるかもしれないが、とにかく、僕としては無韻の世界に憧れるのである。死ねばそのような世界に行けますよ、とご老人に向かって言えば怒られるかもしれない。だったらよかった、もうすぐ逝ける、と言って逆に喜ばれるかもしれない。どうでもいいけど、それは無声映画を観ているような感じなのだろうか。むしろ、音を立てずに馬に鞭を当てる、音を出さずに拍手を打つ、これ等に似ているように思う。人間の意識や意思や意図等は存在はするが、音が無いということでしょうか。でないと美しい音はできてゆかない様に思う。

それにしても、世間ではクリスマスイヴだというに、ふと我が身を振り返ってみれば、こんなショーも無いこと考えて過ごしているとは、実に情けない。
[ 2010/12/24 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

思うこと

昨日のお昼、友達の事務所へ行ったら、ここも禁煙である。私は外へ出て、立ちションならぬ、立ちたばこを吸うことになった。すると、目の前のビルに面白い貼り紙を見つけてしまった。それは「○○鍼灸・接骨院」の入り口のガラスの扉に貼ってあった。「骨休みしてます」と書かれ、その下には黒地に白抜きで骸骨が椅子にゆったりと坐った絵が描かれていた。私はこれを書いた人が好きだ、実に面白い。

どこがどのように面白いの?と問われて、これを接骨師が自分の骨休めで・・・などと事細かに説明していたら、ちっとも面白くなくなってしまう。世の中にはこんなことってありますね。



昨日の夜は日本放送協会のTVで、「ドラクロワ」という番組をやっていた。私は10分程度観たでしょうか。美術番組かと思えば、「ドラマチックな苦労話」なんだそうだ。

森三中の大島のお母さんは看護士で、その地域では「天使」と呼ばれた人らしいが、そのお方にも泣きたくなる位の苦労があったのだそうだ。お母さんが好きでいつも口ずさみ、のど自慢で鐘二つもらった歌が、船村徹メロディ、松原のぶえの「女の出船」であったという。そのようなトレンドの番組であった。また、岡村孝子が歌っていた。久しぶりに見た彼女の風貌に、私は驚いた。画面の彼女は、私の抱いていたスラリとした小づくりな彼女のイメージと大分違っていた。太ったのか、何かの病気でむくんでいるかのように、私には見えた。名曲「夢をあきらめないで」を歌った。

そういえば、取手の27歳男は「夢は小説家」ということであった。あの事件で、どうやら夢は諦めてしまったようだ。終わってしまった。いえ、27歳くらいで終わってしまうようなものは、そもそも最初から無かったに等しい。無い、つまり不存在であるのだから、普通なら話はここで終わるのであるが、犯罪捜査でも時には不存在証明・アリバイというものが非常に重要なものと成るが、実は小説にもごく小さな一面としてそのようにも言える。欠落感という欠落したものすら書くのですから。



愛とは何か、生きるということは?人間の幸福とは?文学とは何ぞや、文学は何が出来るか、そのような問いかけを顔も赤らめずに面と向かって言える人はいないであろう。確かに飢餓に苦しむ人たちには一片のパンこそ必要であり、一編の小説は無力である。そんな投げやりな言い方はよくないが、どの設問にせよ、簡単に結論はでない。無論、人が何を信じ、何を思い込もうが、その人の勝手であるが、人間は苦悩し、様々な障害や困難と闘うのであろう。そして、その深い精神体験に基づき、物語なりを書く。読者はその物語や一場面なりに感動を覚える。ただ、書く側に居る人と読む側にいる人は根本的に違うと思う。たとえば、取手の男は太宰治を読んだのだそうだが、桜桃忌に集まる太宰ファンの人たちと、書き手である人とは話しは噛み合わないであろう。合わせようと思えば合わせられるが、書き手はディテールなんて覚えてはいない。自分の為の自分なりの読み方をしているに違いない。自身の創作の為の糧にしていることであろう。上の問には作品で応えるのが作家の仕事に他ならない。書く人にとっては、文学のロジック、セオリー、トレンド、システム、そんなものはあっても邪魔にはならないでしょうが、そう必要なものとは思えない。

亡き子を偲んで詠んだ歌や創った曲は、なぜ人の心に響いてくるか。これが文学だ、音楽だ、芸術だ、ついでに、爆発だあ、なんてつもりで創られたものではないことは明らかであろう。



私の独断に過ぎないが、金魚蜂の金魚でもイミテーションの水車小屋や水藻を認識しているであろうに、取手の男は人間界で何を認識し、どのような苦悩があったのか、情報不足の私ではあるが、書き手としての資質は全く感じられない。多分、苦悩、闘い、錯乱、狂気、・・・そのような言葉を文字にして書いたことすら無いかのように思える。



手前勝手なことばかり書いたが、わかりやすい実例があった。水嶋ヒロ君の処女作より。

「人を愛すると言うことは、その人のために生きることであり、同時に死ねることだ。それをアカネが教えてくれた」

あ、そうですか。どこかで聞いたような、誰かの受け売りのような、月並みな文章ですこと。文学がどうの、小説がどうのというよりも、創作とは何か、と言いたい。他人の名前で書く文章ならば、私だって顔を赤らめながらもこういうのを書けるでしょうね。

私の失礼、お許しください。



参照:本日の挿入歌↓船村徹・松原のぶえ

http://www.youtube.com/watch?v=9Tn37hHNLo0

↓「夢をあきらめないで」

http://www.youtube.com/watch?v=Sz29T3oLRr4
[ 2010/12/21 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

心ここにあらず・・・なんてことしやがる!

今日は早朝から妻とともに外出した。朝食は久しぶりにファミレスに寄った。私は学生時代から、朝食は喫茶店のモーニングサービス程度で十分である。基本はコーヒーにトーストであるが、お店により他に卵、野菜サラダ、スープ、オレンジジュース、ハムやウインナーが付く。パンもロールパンであったり、クロワッサンであったりする。サラダの中にポテトサラダでも入っていれば、私としてはとてもラッキー、ハッピーな気分になれる。なぜポテトサラダかと言えば、貧乏学生時代に通った食堂で、何定食を注文しても、ポテトサラダがかなりの量、レタスの上に載っていたのである。私は舌で味わう味覚の外、懐かしい思い出までも、食べているのかもしれませんね。



昭和40年前後の地方都市には、喫茶店と名の付く店はほんの数えるほどしかなかった。その後、喫茶店も急速に増えたように思う。日本人はそんなにコーヒーが好きだったのだろうか、と驚いてしまう。喫茶は日本の伝統文化であるが、「喫茶店文化」とでも言うべきものを我らは創造したに違いない。

軽食喫茶、ジャズ喫茶、クラシック音楽喫茶、歌声喫茶、同伴喫茶、水着喫茶にネグりジェ喫茶、漫画喫茶にネットカフェ。そうそう、TV喫茶というのもありました。原辰則の東海大相模と定岡正二の鹿児島実業の試合を、私は仕事をサボって喫茶店で観たのでした。

私は学生時代は、金もないのによく喫茶店に行っていた。友達との待ち合わせや打ち合わせ等、すべて遊びであったが、誰が言ったか知らないが「ダベる」なんて言葉がありました。



え、それで、うちの妻がコーヒーを差し出しながら、「水嶋ヒロの小説は誰かゴーストライターがいるの?」と聞く。「そんなこと、俺の知ったことか!」私は心ここにあらず、厳しい口調で言ったのだが、外の景色を見るでもなく、遠くへ視線を伸ばして、ただ紫煙をゆったりと燻らせていたのだった。



こういうことを考えていた。

彼女と初デートが喫茶店であったとしよう。普通はまず「お砂糖はおいくつ?」と聞く。私はブラックであるのに、砂糖やミルクをドバッと入れられたら、どんなに美しい人であっても「なんてことしやがる」と叫びたくなる。そして女性が、砂糖を混ぜるあのスプーンでコーヒーを掬って、口へ運んでいたとしたら、私は心の中で叫んでいることだろう。実はそのスプーンの使い方はね・・・と言って細かく説明したがる男もいるでしょう。私はその場では何も言わない。男の中には、自分も彼女と同じように、小さなスプーンでコーヒーを啜るという人もいることでしょう。ある人は失礼だ、男のやさしさ、思いやりだと言うかもしれない。

結論から申し上げれば、普通の人はどちらでもいいんです。物事にこだわる人は拘ればいいんです。



私は拘る方でしょうね。朝のトーストの焼き加減はキツネ色、厚さは日によって違う。朝のパンを何センチにするか、妻が前夜私に尋ねる。出されたパンを見て、「もうちょっと厚切りにしてくれたらよかったのに」と私。すると、「あんたは昨夜は2.5センチにしろと言ったでしょうが」と返ってくる。このような会話は別に夫婦仲が悪い訳ではないのだが、そこまで言われれば「あっ、そう」としか言えない。私は自分に拘っているのであって、他人様には拘ってはいない。私の場合は”独り相撲”であって、あくまでも私的なものだと考えている。

他人に対して拘るあまり、他人に猜疑心を抱いたり、邪推している人をたまに見かけるが、美醜という点では、明らかに醜の部類に入るでしょう。



他人との関わりで、行動まで起こした男がいる。尖閣のビデオを公開した人は、今やちょっとしたヒーローである。尖閣でなくても、国家公務員の地位であったがために知りえたものは、やはり守秘義務というものがあるのではないか。民間会社でも最近は、簡単にFAXもしない。誤送信はあり得るのだから、送信する場合には事前にテスト送信をする慎重な取り扱いである。結果はどうでもいい。正義感でやったにせよ、こんな大それたができる人間性を疑ってしまう。

大それたこと、と言えば、取手の27歳男も他人様を巻き込んだ。人生を終わらせたかった、などと嘯いていたというが、だったら、自分ひとりで自己完結すればよかったであろうに、なんてことしやがる。



夢は小説家だったというが、これについてはまた日を改めましょう。今日は私は頭のてっぺんに瘤を作ってしまって、痛くて、辛いので、コンデションンが最悪である。道路を歩いている時、手に持っていた本を読み始めた。立ち止まって読めばいいのだが、行く先があるから、行かねばならぬ、と考えているので、読みながら歩いていた。コンクリート電柱にブッ衝かって我に返った。これこそ、心ここに在らず、前が見えていなかった。僅か5ないし10秒の出来事であった。

かつては、ガラス製の扉にもろに衝突したこともあった。デパートとか大きなビルの入り口では、風除室があって、二重扉の構造になっている。一つは通り抜け、僅か5メートルの間であろうが、全く他の事を考えていた。このような私を他人が見れば、なんてことしやがる、と言いたくなるでしょう。が、他者や周りの状況や、とにかく目の前が見えていないということはよくないし、なによりも危険なことだ。



「うん、今流行のカプチーノ、カフェオレなんてのより、朝のコーヒーはブラックに限るね」

私は煙草をもみ消し、熱いコーヒーを啜ったのだった。







[ 2010/12/18 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

四方山話3

あくまでも四方山話であって、与太話にならないように気をつけたいものだ。



サラリーマン層に一兆四千億円規模の減税をするんだという。今の政治状況からして、法案が可決され、実現するのかは疑わしい。私がこの金額で思い出すのは、これだけの金は朝鮮信組に対する公的資金の投入額と丁度同じということである。朝鮮信組は破綻し、債権回収機構が全国の朝鮮学校に仮差押を踏んでいる。朝鮮学校は朝鮮信組に債務があったということでしょう。仮差しを取り下げてもらうには、相応の金を回収機構に払い込まなければ成らない。産経新聞によれば、日本国が朝鮮学校に対する高校授業料免除や補助金を交付すれば、その金で国の借金を返済することになる、というようなことであった。漫画か落語のような面白い話である。



日本人の自営業者に滞納処分による差し押さえでもされれば、信用保証協会の保証がある借り入れについては、一括返済を迫られる。いわゆる期限の利益の喪失と言われるものですね。信用保証協会の多くは国や県の金である。滞納者は国に債務があり、金融機関にも債務を有するが、これを半ば公的機関である保証協会が債務の保証をしてあげている、というおかしな構図になるのである。債務者が破綻した場合を考えれば、とても成り立つ関係ではないのです。

それに比べて、現政権は朝鮮学校に公金、つまり我らの血税をくれてやろうとしている。なんてことしやがる!
[ 2010/12/17 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)