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今日も寒い。

どこのスーパーの卵売り場にも「これは出水産ではありません」と表示してある。僕はカンさんではないが、このような問題に疎いものだから、何のことやらわからず、家に帰ってから、あ、そか、出水(注1)の鳥インフルエンザの関係か、と思いついた。養鶏農家・生産者にとっては大変な死活問題であろうに、もっと違う書き方は工夫できないものだろうか。たとえば、「この卵は鳥インフルではありません」とか「安心・安全な卵をおとどけしています」とか。スーパーの人たちも無神経というか、なんか冷たいよな。お寒い限りだ。勿論、出水の卵を販売しろ、などと言うつもりは毛頭ないが、僕的には鶴のために田圃を提供している人たちのことを想ってしまう。

佐渡のトキを保護するために地域の人々は、お米を無農薬で栽培しているそうだ。このような農法で作ったお米を「佐渡米」のブランドで売り出している。多少高いものにつくかもしれないが、僕らはこのような人々を「食べる」ということで応援してやりたくなる。



新燃岳が52年ぶりの噴火で、その噴煙は鹿児島市でも見えるのだそうだが、僕は見た事はない。僕らは毎年夏になればドカ灰に苦しめられるので、もう嫌だ、灰のことなど考えたくも無いのである。だから、見たくない、というのが正直な感想である。その分、当事者のご苦労は理解できる。

実は僕は8・6水害(注2)の被災者である。床上浸水したので、家族5人しばらくの間は二階で生活した。その僅か数ヵ月後、高台の団地に住む人にその時の苦労話をしても、「そうでしたか、おーほっほっほほ」と笑われる始末で、怒るよりも、むしろ悲しくなってしまった。僕にとっては深刻、他人にとっては火事場の馬鹿力のような一生懸命さが滑稽なのである。当たり前のことだけど、立場を変えて、他人を悲しませるようなことはしてはならないよね。



今夜はアジア杯サッカーの決勝があるので、心ここにあらず。僕の心がですよ。お店は早仕舞いします。ニッポン、チャチャチャ!日本、万歳!





(注1)鹿児島県北部のナベヅルの飛来地。鶴からウイルスの遺伝子を検知、その後養鶏場の鶏に。

(注2)平成5年8月6日、鹿児島市を中心にした集中豪雨による水害。死者23名に及んだ。
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[ 2011/01/29 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

不思議な朝

お腹が空いて目が覚めた。太陽はかなり高いのであろうが、厚手のカーテンを閉めてるので部屋は暗い。「おーーい、パンとコヒーをちょうだい」と私は叫び、寒いので蒲団から出たくは無かった。そのうち部屋を点灯し、コーヒーとトーストをテーブルの上に置いてあった。それでも蒲団から出ようとせず、寝返りを打ったり、寝たまま背伸びをしたり、手や腕を逆方向に曲げたりしていたら、空腹感は無くなり、また、ウトウトとしてしまったようだ。



女は、月がとても明るいから、ちょっと遠回りになるが、街灯のついた大通りを避けて、月を観ながら帰ろうと思った。(注1)しばらく歩くと、駅から吐き出された人々はもう周りに居ない。寒い夜ではあったが、女の火照った顔には心地よかった。女は他人に見られるのが嫌いであったので、ただ独りで行動することが多くなった。二人の男との交際について、ふしだら、淫乱女とか魔性の女(注2)と噂された。小さな町のなかでは、この女のことを知らぬものはいない。

女は冬場は長袖を着るからまだいいが、半袖を着る季節には困った。暑くてたまらない日には、手首にリストバンドをした。それは何度か切った、ためらい傷があったからである。(注3)



アラブの王様が、地下深く眠る資源をあなた方と共有しましょう、共同で開発しましょうと言う。地下の資源など誰も見た事はない。しかし地上の利益は誰にも渡さない、と王様は言う。(注4)



「包茎」と「捕鯨」は韓国語では同じ音読みをする。手術を受けることを、鯨とりに行く、と言ったりするのだそうだ。(注5)イスラム教では古くから、「割礼」という”儀式”があるが、かの国ではちくわの輪切りの歴史は浅い。ほとんどの男どもが大人になるまでに済ませるのだそうだ。

軍隊で性病が蔓延し、ほとんどの兵隊さんに手術を受けさせた。すると一週間はナニが使えないので、性病予防の苦肉の策であったという。苦肉というより、皮ですからね、皮肉な結果でした。そこいらから、全国的に儀式が拡がったようである。でも、本当に手術をしなければならないくらいお困りの方はほんの数パーセントだというのに、お気の毒に。

それ見たことか、従軍慰安婦なんていつの時代にもいたんじゃありませんか。



日本国内の韓国人学校にもタイガーマスクが現れた。子供たちにユ・ギルジュン(注6)のことを教えてください、と手紙に書いてあったという。多分、在日の仕業、いや、韓国ゆかりの方でしょうが、仕事も生活も(国籍も?)基盤は日本にある方でしょう。



我が国の反日左翼勢力を痛切に批判してくださる、カレル・ヴァン・ウォルフレン(注7)も慰安婦に関してだけは何か偏見でもおありなようで、日本国(民)に対して厳しい意見だ。しかし・・・。



アーサー・クレーン(注8)なる男は、「社会に自分の居場所が欲しかった」らしい。その考えは否定はしないが、よりによって旧日本軍の捕虜の会会員になってしまった。そのような種類の団体の会長になり、残虐・非道な日本軍(人)という話を全国に講演していた。これまでの騙し取った軍人恩給は3千万円以上にもなる。この罪で禁固刑に処された。嘘の人生を歩いていたのであり、これには家族も離れていった。彼の居場所は刑務所しかない。

他人から聞いたり、或いは書物をみたかもしれないが、実体験ではないこと、つまり見てきたような嘘を語って生きてきた憐れな男である。長年にわたり、我らの名誉を著しく毀損してきたのである。去年のことであったが、我が国ではネットは別にして、たいした話題にも上らなかった。本当は我らはこれにも怒らなくちゃならんのとちゃうだろうか。



ほんの僅かな時間に、私はこのような夢を見ていたのだった。





(注1)連想♪菅原都々子「月がとっても青いから」

(注2)ネット上では投稿初心者・弱者、女性に対する誹謗中傷、罵詈雑言、罵倒、暴言は厳に戒めるべきであるが、ネットで非難された。

(注3)「死にたくはないかと言へば これ見よと 咽喉(のど)の痍(きず)を 見せし女かな 」石川啄木

(注4)国は建国記念日に国民に等しくお金を配る。外国人である多くのインド人労働者は除外。

(注5)産経新聞水沼啓子ソウル支局員の記事。

(注6)李氏朝鮮時代の開化主義者。朝鮮人として最初の日本留学者。

(注7)オランダ人、アムステルダム大学教授、日本研究家。国民のプライドは「美しい嘘」からは築けない、という。

(注8)オーストラリア人。16歳でゲリラとして日本と戦い、日本の捕虜であったとして、軍人恩給を受領していた大嘘吐き。
[ 2011/01/23 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

停車場に想う

今日はいろんな人とよく逢う一日だった。

お役所の階段を昇っていたら、降りてきた人が私とすれ違い、下から私の名を呼ぶ。「あら、おひさしぶりです、私を覚えていらっしゃいますか?」私は咄嗟のことですぐには思い出せなかったが、顔を見ているうちに、20年ほど前に私の友人の事務所で働いていた女の子だったと気付いた。それでも名前は分らなかった。これを書いている今は、彼女の旧姓を思い出した。彼女も娘さんが高校1年生になったという。雇い主であった私の友人は数年前に亡くなった。「でも、あんたは昔とそんな変わらないよ。」などと話していたら、また、階段を下りてきた私の古くからの友人と逢った。二人から同時に話しかけられ、どちらにどう応えていいか戸惑ってしまった。

二人と別れた後、丁度階段を昇り終えたあたりで、何年も会っていない友人とぶつかりそうになった。そこで暫し立ち話であった。電話やネット上の会話と違い、顔を見ながら、しかも懐かしい思いに捉われての会話は、常日頃持っていた「人恋しさ」を満足させてくれるに足るものだと思う。人間、特に私めは寂しがりやなのでしょう。



ふるさとの 訛なつかし 停車場の 

人ごみの中に そを聴きにゆく




作者は誰であるか、「そを聴きにゆく」の「そ」とは何か、どこに聴きに行くのか。いかにも高校の国語の期末テストかなんかに、このような問題が出そうですね。ついでにこの人の歌集をあげよ、というのもいい問題ですね。「そ」とはお国訛りのことですね。啄木ですから、盛岡あたりの方言でしょうか。私の「人恋しさ」というのもこのような感情に似ています。訛りだけではなくて、きっと人物、人間性そのものに対するものでしょう。

こんなのもありましたね。

たはむれに 母を背負いて そのあまり

軽きに泣けて 三歩あゆまず


されど、背負いたくても、我が母はすでになく、無念なるかな。なんちゃって。



さて、ランチタイムには、いつものあのアンニョン(安寧)なあいつと一緒でした。そうですね、ハ・ジウオンとやらのファンクラブでした。和食の大型チェーン店で蕎麦を食べた。そこの従業員は和服を着て襷掛けに前垂れ姿であるが、その中に「○○中」という腕章をした男がいた。そいつがお茶を注ぎに来た時に「お前は中学生か、ここに就職が決まったの?」と私は訊いて見た。すると、彼は中学2年生で、学校の職場体験学習で3日間働くのだという。この中学の2年生は全員、サービス業や製造業等で体験学習中なのだそうだ。私はこんなの始めて知りましたよ。子供には出来るだけ早い機会に、職業を体験させるべきだと思う。私たちの時代には就職列車というのがあり、多くの人たちが中卒で就職していました。私も停車場で友を見送ったことがありました。井沢八郎「ああ、上野駅」の世界ですね。余談ながら、カラオケの出始めの頃は、ブックを見ながら歌ったのですが、この歌は「あ」の1番、つまりブックの第一ページに載っていました。



私の友人でも下の子たちの子守をしていたとか、毎日井戸水を汲むのが仕事であったという人もいました。牛や馬の世話をしていた人もいた。藁裁断機で指を落としたと言っていました。そういう人たちは(指は無くとも)足が地に付いたしっかりした考え方をしていたように思う。彼らは最初に就いた職業をやりとおし、近年、定年を迎えつつあるのだが、彼らが日本の高度経済成長を支えてきたと言っても過言ではない。
[ 2011/01/20 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

マルハナバチ

くまん蜂の一種なんでしょうか、マルハナバチという昆虫がいます。この蜂は体や羽根の大きさ、体重などからして力学的に決して飛ぶことはできないのだという。ところが何故か現実に飛んでいるんですね。ただ、物凄い羽音がするのだそうだ。私の想像するところ、コルサコフの「くまんばちの飛行」みたいな感じであろうか。私はこのような頑張っている人、いや、蜂にハナマルを上げたいと思うものだから、名前をハナマルバチとつい間違えてしまう。



このようなことが人間世界にもあるのではないか。この世には科学では説明のつかない、不思議な現象や事柄が潜んでいるのではないか。人によってはそのような神秘的世界に興味を持つかもしれません。科学や現実世界或いは論理を超えたところに何かがあるんだ、そう信じる人もいるでしょう。

しかしながら、最近のことであるが、この蜂が飛べる原理が何かの数式で解明.されたというんです。全く夢のない話です。今まで何かを見、何かを信じた人たちは一体何だったのでしょうか。私はこのような人を哂うよりも、むしろ科学の進歩なんてのは我らが考えるほど早く進むのではなく、今頃やっと解明した科学なんてのは意外と進歩は遅いのではないかと思う。



私の子供時代には雑誌などに未来の空想画が載っていた。水陸両用車ならぬ、空飛ぶ自動車というのがあった。これは簡単に実現するのではないか、と子供心にも思ったのだった。車が混雑している時には空を飛ぶんです。でも今考えてみれば、混雑していれば自分だけではなく、みんなが空を飛ぶのだから空が大渋滞するのではないか。他の車は道路を走り、自分だけが空を飛ぶという発想は、子供っぽいと言えばそう言える。

他の星に人間が住み、家畜を飼い、野菜を作る絵もあった。そしてまた、病気も根絶されるであろう、ということであった。そのようなSFからすれば、科学はそう進歩はしていないのかもしれない。



映画「猿の惑星」のラストシーン、チャールトン・ストーンは猿の支配する星かと思っていたら、実は愚かな人間が核を使用して地軸の狂った地球であった。今、我らが見ている万光年の彼方の星は、何十億年もの前の地球ではないかと思う。或いは向うの方が今現在であって、我らが数十億年前の地球なのかもしれない。このような途方も無い事を考えると、人間は実に小さな存在に見える。

人の死後、肉体は分解される。土になったり、植物になったり、それを食べた動物になったりすることでしょう。その小さな分子がいずれは何かの偶然で、また人間が再生される。あなたは二十億年後にまた生まれ変わるのですよ、というような新興宗教があっても私は驚かない。尤も、私はそんなのには信者にはなりませんし、まっぴらごめんでやす。



えー、話が大分それましたが、マルハナバチをお見かけの際には、宇宙に思いをいたしましょうや。
[ 2011/01/17 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

隠喩(メタファー)

天皇陛下の新年のお言葉に感激しましたが、歌会始めの皇后陛下のお歌も実にすばらしいものでありました。

おほかたの 枯葉は枝に 残りつつ

今日まんさくの 花ひとつ咲く


今年のお題は「葉」であった。ちなみに来年は「岸」ということである。枯葉や花一輪にお目を留められた、皇后陛下のお優しさが伝わってくるようです。そして、私的には、「まんさく」とは豊年満作を連想するのであり、縁起がいいというか、なんだか楽しく、また心豊かになります。



これはどうでしょうか。

千種にも なほかへつべし 霜がれの

中に一はな 咲けるなでしこ


江戸時代初期の頃の後水尾天皇(上皇)がお詠みになりました。歴代天皇のなかで最長寿であられたのは昭和天皇であるが、その次が後水尾天皇である。従って、昭和60年頃までは歴代一位として話題に上ったように私は記憶している。人生五十年の時代に、確か85歳であったと思う。

霜枯れの中に撫子のひと花咲いていた、というんですね。なでしことは、私としては「大和撫子」「なでしこジャパン」ということになる。



ところで、せっかく咲いたなでしこやまんさく、桜でも梅でもですが、これを手折る人は無粋なんてものではなく、絶対に許せない。なんてことしやがる!つい、怒鳴りたくなります。

遊女を身請けしようとした友人に、播磨の俳人は「手に取るなやはり野におけ蓮華草」と詠んだ。花は野にあってこそ美しいという意味もあろうが、今回のケースは、健気にも厳寒の季節に咲いた特別な花一輪である。突然ですが、排除の論理というのもこれに似て横暴・野蛮と言えまいか。



話題はガラリと変わる。空腹感は誰でも知っている。あー、お腹空いた、なんか食べたい、お腹の皮と背中がくっつきそう、かと思えば、小腹が減った、etc.。飢餓感という言葉もあるが、これは水や食糧に飢えていることのみならず、愛や満たされない心や精神を表現するのにも使われる。そこには強烈な渇望が在るような気がする。そして、飢餓状態が続けば餓死ということになる。そこで、「餓死感」という言葉が存在するのであろうか、と私は考えるのである。餓死を経験した人は、当然のことであるがこの世にはいない。経験者によって決して語られたことの無い言葉である。会話においては慣用の積み重ねであろうから、「餓死感」という言葉は在り得ない。餓死の感覚を云おうとすれば、想像力と普通には膨大な量の言葉を要すのではないだろうか。数行の詩や三十一文字で表現できる、ほんの一握りの選ばれし人たちはいるにはいるが。



食べ物が無くなってからすでに10日が経った。隣の部屋にいる姉のため息が聞こえなくなって5日になる。隣の物音が全く聞こえなくなって、確か、今日で3日になった。ああ、姉さん、私もそっちへ行くからね。薄れゆく意識の中で、妹はそうつぶやいた。大阪の資産家姉妹(63歳・60歳)、死亡推定先月の22日、今月8日ごろ発見。

資産家といっても、不動産、預貯金、家賃収入まで差し押さえられたのでしょう、かわいそうに。私に云わしむるに、国や市に殺されたようなものだ。



[ 2011/01/16 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

箇条書き(2)

1、ヨロブン、アンニョンハセヨー!

私は「朝鮮日報」「中央日報」の日本語版を毎日読んでいます。時には「聯合ニュース」「東亜日報」をチエックする時もあります。別にあの国が好きなわけではなく、ウオッチングが好きなだけです。もう六・七年になりましょうか、我ながらこんな生活は嫌になります。通販生活の方がよほど楽しいことでしょう。



2、こんな記事があった。今、韓国では口蹄疫が大流行であるが、そのウイルスは去年宮崎で猛威を振るった口蹄疫ウイルスと遺伝子配列が同一だという。宮崎、仁川間の航空便が週に3便あるらしいが、この旅行者により感染したと言っている。これでハッキリしたのではないか。韓国から宮崎牛に移され、韓国では根絶されていなかったのでぶり返した、ということでしょう。



3、こんな記事もあった。65歳の夫が60歳の妻を殺した。男は何年か前に病気になり、そのとき飲んだ薬の副作用で性的不能になった。夫婦喧嘩の口論の時、妻が「男の役割も果たせないくせに・・・」と言ったひと言に男が切れたのでしょう。なじられて、前後見境無く殺ってしまった。チョンさんの火病と言って、我らは哂えない。世界中にこのようなお悩みをお持ちな、誠にお気の毒な方々はいらっしゃるでしょうから。



4、99歳の詩人・柴田とよさんを紹介しています。朝鮮日報では柴田さんにインタヴュー依頼の申し込みまでやっている。暖かくなったら実現しそうである。韓国ではすでに柴田さんの詩集が翻訳・出版されているのだそうだ。それで、韓国のお年寄りに詩を作ることを勧めていた。80歳以上の老人は大日本帝国時代の教育を受けている人たちであるので、反日とかそんなんじゃなくて、人間がしっかりしていると思う。



5、話変わって、「カスバの女」という名曲があった。昭和30年ごろ発売され、また昭和40年代には緑川マコが歌っていた。私は40年代半ばには立派な社会人となり、夕暮れ時になれば飲み屋へ直行という、模範的な生活であった。夜の巷にこの曲が流れていましたよ。この曲はアルジエリアかモロッコのもので、日本語の歌詞をつけて歌っているものとばかり思っていた。フランスの外人部隊のお話ですよね。場末の赤提灯あたりでこの曲が聞こえてきたら、私は涙流してました。

実は久我山明という日本人の作曲だったんですね。韓国名・孫牧人だったのだそうだ。創氏改名?よくわかりません。久我山に住んでいたのでそのように名乗られたのでしょう。とすれば久我山はペンネームかもしれません。



6、そのころは「在日」なんて言葉すら聞いたことはなかった。今でも覚えている当時のTVドラマがある。日本人女性がアチラの国籍の男性と恋仲になる。女性の父親が男性に向かって、「戸籍謄本を持って来い」なんて怒鳴ってましたね。



7、私は世情に疎いというか、鈍い。今頃になってこんな事を知った。神戸の大震災は平成六年でした。ある地域では地震発生後6時間してから火災が起きたのだそうだ。消防の人たちは車のエンジンを掃除していて出動しなかった。その地区は都市開発計画の区域内であった。これで想像できることは、建物が無くなれば、建物に付いた権利はすべてなくなる。地上権すらなくなる。誰か得する。そこアチラの国の出身者がたくさん住んでたアル。こんな話を今ごろしても、真偽の程はわからないニダ。



8、久我山明は戦前にも大活躍したんですね。「木浦(モッポ)の泪」というヒット曲があります。戦後は菅原都々子が歌い、田端義夫、中村美津子さんも歌ってますね。私は戦前の歌は知らない。多分、↓こんな感じではなかったのだろうか。韓国ではトロットといわれ、日本では演歌ですわな。私は演歌も好きだが、日本の領土が広大であった時代が大好きだ。

好き放題言わせていただいて、カムサハム二ダー!



http://www.youtube.com/watch?v=VkZ83a6n2Tk&feature=related













[ 2011/01/09 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

箇条書き

1、今まさに厳寒の季節であるが、過ぎ去りし秋やまだ来ぬ春を想う。あの猛暑の日々ですら懐かしむ。人間は勝手なものだ。春にはその望月の如月の頃死なむ、と願った人もいた。

春と云えば いづこの花も 時めくに

しほれて返る 人のあはれさ

こう詠んで逝った老人もいた。私は春は憂鬱になる。いわゆる「木の芽時」というもので、自分で言うのも変だが、精神状態がおかしくなってしまう。子供の頃よりの一種のビョーキなんでしょ。



2、では、春夏秋冬のない国ではどうなのだろうか。大昔、香港・マカオへ行った時のこと。その頃は農協、いや世界のノーキョーが元気な頃で、彼らは稲穂のマークのは入った小旗を先頭に、世界中を闊歩していた。私はノーキョーではないが、旅行会社のツアーであった。その時の現地人ガイドはイシマツさんであった。「私は清水の次郎長さんの子分の森の石松さんが大好きです。私のこと、イシマツさんと呼んでください。」彼は会うなり、そう言った。私は道端の木の名を彼に訊いたのだった。

3、「あれは日本の兵隊さんが植えた松ですよ。」葉が数十センチにも伸びて、ダラリと垂れていたのは松であった。日本のように四季がないので、あのように伸び放題のだらしない姿になってしまったということであった。これは本当のことだ、と私は今でも信じて疑わない。



4、1月3日の地方紙に興味深い記事が掲載されていた。江戸時代の薩摩の豪商・浜崎太平次の「ヤマキ」の長崎支店が写された写真が発見されたという。薩摩藩蔵屋敷のすぐ近くであった。幕末の頃、三井や鴻池とともに長者番付に名を連ねた人であるが、意外と知られていない。密貿易や荷抜けは厳刑であったから、ベールに包まれた一面もあったであろうが、わずか200年まえのことであるのに、誰が何をしたか、すらわからない。

5、200年前の人は誰一人この世にいないのだから、すべての歴史は現代史である、と言われることに頷ける。

でも、後世の歴史家の評価に委ねたい、などという人は無責任極まりない。人に「生まれ」と「育ち」があるように、国家にもそれらがあるのだという。「育ち」とは歴史であることは言ううまでも無い。



6、四面海の我が国には、遠見番、潮見台、魚見町、これ等の名の付く場所は全国に数あるのだろうと推測する。高台から日がな海を見つめるのを仕事にした人たちがいた。太平次の船を東シナ海で見るや、狼煙をあげて錦江湾の港に知らせたという。情報というのは現代人の専売特許ではなく、昔から大切なものだったに違いない。古代においては、食糧、外敵に関する情報は生きるか死ぬかの大問題であったことでしょう。



7、海を見つめる仕事、すばらしいですね。50年ほど前でしょうか、「喜びも悲しみも幾年月」という映画がありました。佐田啓二、つい最近お亡くなりになった高峰秀子主演、灯台守のお話でした。私は映画は観たが、よく覚えていない。音楽はその後何度も聴いたので覚えている。私の友人のお父さんがそのお仕事であり、灯台の官舎で育ったのだという。今もそのような仕事があるかわからないが、今だったら単身赴任でしょう。家族が一緒に住まなくなってはじめて、「家族の絆」なんてことが語られるようになったのではないか。追憶の遠い彼方のノスタルジーとして。



8、TVで大喰い女を見なくなった。良い傾向だ。私は彼女等を別に毛嫌いしている訳ではないが、自身が最近は量で食べられないので、あれ見ただけで吐き気がしてくるのである。グルメ番組、味な旅、という番組も多い。彼らは決まって、「美味しい」「絶妙な味」「まいうー」などと言ってはしゃいでいる。舌で味わうものであるので、饒舌に成ってしまうのかもしれない。以前、食い物の話で、サンキューベロベロマッチ、と書いたが、その典型なのかもしれない。この饒舌は実は野蛮な行為なのだと思う。丁度、舌と舌を絡め、貪るように吸いあう男と女。嗚咽が聞こえてくるようではないか。だからと言って、悪いと言っているのではない。



9、逆に寡黙になってしまう場合もある。失語症に陥ってしまったようで、語る言葉も出ない。最近すごくいいブログを見つけました。いいの見っけた、みんなに教えてあげよう、と最初は思ったが、今はあまり他の人に教えたく無くなった。私のことですから、どうせどこかでバレてしまうのでしょうが。偶然の出会いに感謝です。



10、さて、この次は11とお思いでしょうが、私にとってはまた1に戻るのです。あくまでも私のイメージであるが、光のように、また放たれた矢のように直線的に拡がって進んでゆくよりも、同じところをグルグル周っている方が、私は美しいのだと思う。そんな気がするだけで、良いも悪いもなく、根拠など説明もできない。
[ 2011/01/08 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

初詣・年賀状のこと

一年間にいろんな神社に参拝するが、初詣は我が家に一番近い鹿児島一之宮神社である。市電の電停一区間歩くだけの至近距離にある。去年は午前0時をもって出かけたら、狭い境内に参拝者が多かった。本年は三日の夜であったが、我が家族三人以外に人は見られなかった。ゆっくりと境内にある看板を見てみると、ここは由緒の在る古い神社である。天智天皇の御代に薩摩一之宮・牧聞神社の分霊、勧請されたとある。このような分祠というのは日本全国にかなりの数あるのだろうと思う。本社と分祠、その時代背景、なんてことを調べてみれば面白いのだろうが、悲しいかな、私はそこまでマメな人間ではない。

ここ数年の我が家の初詣は↓↓↓ここです。

http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/kagosima/kagoshimasi/ichinomiya/ichinomiya.html



私は昔は年賀状はマメに書いていた。前年に私宛に届いた分を年内に書いた。いつの頃からか、その年に届いた分を元日から一週間くらいかけて返信するようになった。そして、この三年間というもの、賀状は一枚も書いたことは無い。こちらは出さないが、それでも従来の半数くらいの賀状が届く。ありがたいことだ。

特に定型の本文の他に手書きで一文書き添えられたものには、私は深い愛着が湧いてくる。感激します。

「お元気ですか」「お会いできて嬉しかったです」「先生のようになれますように努力しています」。その人の性格が思い出されます。「頑張ってください」というのがあったが、これは私の顧問税理士です。私はこの三年、赤字続きですので、全く仰るとおりです。

四十年会っていない友人も毎年何か書いてきます。「まだリタイアできそうになく、一人旅の機会がございません、その内に・・・。」こいつは学生時代には黒ヘルを被り、角材を振り回していたのでしたが、随分と変わったものです。

こんなのもあった。「昨年は仕事の方、指の運動の方、集計はどうでしたか。」何を言ってるんですか、私はパチンコなんか、とっくに止めましたよ。確か、だったと思います。(笑)



肩をあらわにしたドレスを着た女性の写真が貼り付けてある賀状もあった。私はてっきり天文館あたりに新規オープンしたショーパブかなんかの案内状かと思い、咄嗟に隠そうとしてしまいました。よく見れば、例の結婚式で卵ボーロのあいさつをしたあいつからでした。「只今韓国女優ハ・ジウォンさんを応援中です。本国では土・日ドラマ『シークレット・ガーデン』好評ON AIR中。」さらに「ハ・ジウォンが魅せる09年青龍映画賞主演女優受賞作品『私の愛、私のそばに』2月5日より順次日本公開。」

たく、・・・お前は・・・ホントに・・・馬鹿か!



私の人生の上での大先輩からは「○○ちゃん、今年こそは仕事を、と思っています」と。私は四日の朝一番にこの方に電話しました。私「おめでとうございます。長いことお会いしませんでした、お元気でしたか。・・・いや、私が言う元気とはですね、お臍の下の方の元気のことです、あーっははは。」

午後、このお方の共通の友人とお会いしたら、私をちゃん付けで呼ぶ御仁は、去年は前立腺癌の手術をされたのだという。新年早々、あまりにはしゃいだ、ふざけた話もよくありませんね。



以前ここで紹介したこともありましたが、シベリア抑留者の高崎弥生さん、達筆にて、ビッシリと書き込んでありました。

「夢かとばかり、感動の祖国帰還、爾来、六十余年、今や歴史のかなたに忘れ去られようとするシベリア抑留にちなみ、平和への祈りをこめて抑留展(2月16日、当市宝山ホール再開催予定)等、馬齢に鞭うってチャレンジして参りたいと願っています。どうぞ佳いおとしを・・・。昨年は色々と有難うございました。今年もお力添えの程、よろしくお願い申し上げます。」

2月の抑留展には私めも会場にぜひともお伺いしなければならない。



年賀状を一枚も書かない私が言うのもナンですが、年賀状のような日本のよき習慣は、絶えさせてはなりませんね。
[ 2011/01/04 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)